一段落をつけるには(物理的に)薄すぎた 『りゅうおうのおしごと』(5)

ヒロイン(女子小学生)が和倉温泉の加賀屋(をモデルにした温泉旅館)の一人娘という設定故、加越能(かえつの。加賀越中能登の意)の方言が出てくる『りゅうおうのおしごと』だが、なぜか「だら」はいいのだが「だらぶち」は文字列で読むと違和感を感じてしまうのが不思議だ。

それはともかく、棋界の最高タイトルである竜王を史上最年少で獲得してしまった(モデルは渡辺竜王)が故に、ほかの棋士が何年もかけて悩むところを数か月で突き付けられて泥沼に沈んだ現竜王が、師匠や年下の姉弟子、年上の妹弟子、女子小学生の弟子に囲まれて悪戦苦闘の末に第1期防衛戦に最強の挑戦者である現名人(過去七冠を得ているあの人がモデル)を迎え撃つ、というのが1巻から5巻までのお話。

当初、1巻の売れ行きの悪さから5巻完結を決意して書いていたというだけあって、疾走感はすばらしい。反面、書き込みが薄く、特に5巻は重みが足りなかった。5巻完結を目指すにしても、前後編くらいのボリュームで書き込んでほしかったと思う。

とはいえ、シリアス部分もコメディ部分もまずは十分に描けていたし、観戦記者 くぐい のまさかの正体も判明したし、買って損のないラノベと言っていいだろう。「5巻までで描ききる」という縛りも消えたことだし、次巻辺りは女子小学生たちと温泉か海にいくお休み巻になってしまうのではないかという懸念もないではないのだけれども。

カテゴリー: エンターテインメント | タグ: , , | コメントする

三角コーナーに底なしの愛を

排水口のバスケットを「バスケット要らず」に交換したことは以前記したけれど、実はその際一緒に三角コーナーもリニューアルしたのだった。購入したのはその名も「底がない三角コーナー」。名前こそ「三角コーナー」だが実際は丸いケースである。そしてその名の通り「底がない」。

三角コーナーを洗ったことがある人なら誰しもご存知のように、三角コーナーは主に底面と底面裏側にヌメリがたまる。その一番ヌメリが溜まる部分が存在しないのだから、この三角(?)コーナーがどれほど掃除しやすいかは想像に難くないだろう。

ただ、問題なのは水切り袋のセットがやや面倒なことだ。当初プラスチックの網の水切り袋を使っていたのだが、円筒形のケースと鉄のスタンド部分に袋の余り部分を挟み込むのが難しく、結構手間取ってしまった。ただし、その後水切り袋を逆さにかぶせて挟み込んだあとに、袋を内側に押し込むことで割合楽にセットできるようになって不満はかなり解消できた。

ところが、一昨日手元の水切り袋を使い果たしてしまい、適当に不織布の水切り袋を仕入れてきたのだが、これが大失敗。不織布が伸びて、べったりとシンクに底がついてしまったのだ。こでは三角コーナーにヌメリが付かない代わりにシンクにヌメリが付いてしまうではないか。もともと不織布の水切り袋は、生ゴミが増えて三角コーナーいっぱいになっても不織布が伸びるので問題がないようになっている。つまり、「底がない三角コーナー」のように、上から吊るすタイプには向いていないのだ。

ということで、次の可燃ゴミの日までには新しい水切り袋を仕入れてこなければならない羽目になった私であった。

カテゴリー: 身辺雑記 | タグ: , | コメントする

正直すぎるニトリ会長の履歴書 『運は創るもの』

日経新聞の人気連載に、1か月ごとに月替わりで経営者が自分の歴史を語る「私の履歴書」がある。先日ニトリ社長のそれが連載されたのが、型破りと人気を呼んでいたのでまとめサイトで連載に目を通した上で、改めて単行本化された『運は創るもの 私の履歴書』(似鳥昭雄)を読んだ。

連載時には子供時代の実家の闇米屋の手伝いや学生時代の「やんちゃ」が、この手の経営者にしてはかなり赤裸々に描かれていて楽しかった。もっともそれは、ここまで功成り名を遂げた人にしては、というもので、あの時代としてはまあよくあるエピソードではある。この手の人は大抵はここまで大きくならないし、なったとしてもその過去を隠しがちなので、そういう意味で(あまり)自分を飾らない人なのだな、と感じた。

経営者になっても外部から人材をまとめて導入しては会社を乗っ取られそうになることが度々で、なんというか懲りないなぁというか、人を信じる性質なんだなぁ、と思わされた。

単行本になって、連載ではあまり触れられていなかった、会社経営の機微などが得られるかと思ったが、その辺りについてはさほどではなく残念だった。単行本は全体に文字が大きく、老眼の進んだ私や対象読者の目には優しかったが、その分読み応えに欠ける感があり、これならまとめサイトで足りたかな、とも感じた。もちろん著作権的には、日経を丸々転載しているまとめサイトは、まるっきりアウトなのだけれども。

カテゴリー: エンターテインメント | タグ: , , | コメントする

小説家になろうを読む36 『軍オタが魔法世界に転生したら、現代兵器で軍隊ハーレムを作っちゃいました!?』

ほぼ1年ほど前に、小説家になろうのランキングで見かけて、あまり趣味ではなさそうと思いながらも手を出した『軍オタが魔法世界に転生したら、現代兵器で軍隊ハーレムを作っちゃいました!?』が、先日ついに完結した。私が目を通した時には、前世からの因縁の相手とのクライマックス戦闘に入ったところだったので、ここまで読んだからには最後まで付き合おうと思ったのだが、エピローグ的なところに入ったところでラスボスさん(!?)が登場して、まさかそこから1年も付き合わされるとは思いもよらなかった。

タイトル通り、ミリオタが異世界転生して現代兵器を再現して俺ツェーして、ハーレムを作るお話で、気楽に読めるけれどもマジに読むと(特に軍オタな人には)いろいろ腹立たしいところもあるようで人を選ぶというところか。筋肉ギャグなどで笑ってしまったので、そこは私の負けだと思うが、それ以外のところも長いのでお勧めはしない。

それでも、これだけの長さのものを曲がりなりにも完結させたのは立派だと思う。くだらなくてもいいので暇つぶしをするのに長いものが読みたければ、という条件付きでオススメしておく。

カテゴリー: エンターテインメント | タグ: , , | 2件のコメント

古代政治的立場で『日本書紀』を読むべきか? 〜『日本書紀』の呪縛〜

Googleのリコメンド広告で表示され気になった『『日本書紀』の呪縛 シリーズ〈本と日本史〉①』 (吉田一彦)をポチる。Kindle化されていないので久々に紙本での購入となった。

集英社新書ということもあって2時間ほどで気楽に読める1冊だが、前半2/3ほどは非常に興味深く読めた。『日本書紀』が当時の日本の正史として制作されたことについては認識していたつもりだったが、たとえばアマテラスとニニギノミコトの皇「孫」の関係が、日本書紀編纂開始当初の持統天皇とその孫の軽皇子(のちの文武天皇)、および編纂末期の元明天皇とその孫の首皇子(聖武天皇)を写し、彼らへの権力委譲を正当化するものだった、という説は面白かった。立てられた時にはその場凌ぎの牽強付会の説だったものが、正史となることで後世では意味が不明になってしまったという説明は理解しやすい。

また『日本書紀』という形で正史が成立することで「それ以前に語られていたさまざまな歴史の言説は消されてしまい、これだけが唯一の歴史として存在することになった(p.27)」という指摘は重い。それ故に、後世、『日本書紀』の記述を自派に有利なものとすべくさまざまな「家牒」「家伝」「家記」、あるいは「氏記」「氏文」「記文」と呼ばれる古文書(=偽書)が「発掘」されることになる。中臣氏に圧力を受けていた斎部氏(忌部氏)が自らの立場を主張するために作られたと見られる『古語拾遺』や、物部氏の地位保全のために著されたと見られる『先代旧事本紀』などの説明も楽しめた。

ただ、後半1/3は激しく駆け足となっており、『古事記』や聖徳太子、『日本霊異記』についてはただ触れているだけにすぎないのは残念だった。もちろんこれらの項目については改めて本を1冊著さなければならないほどのものであるのはわかるのだが、それまでの記述が面白かっただけに惜しまれるところだった。

いずれにせよ、天皇の外戚である藤原家の手による「国史」が、結果的に日本最古の公式文書として残ったことで「日本」という国が縛られることになったことは不幸というしかないだろう。この本にあるような『日本書紀』の「呪縛」から逃れるには、あくまで飛鳥・奈良期の政治文書として、距離を置いて『日本書紀』を読みこなす必要があると感じた次第だ。

カテゴリー: エンターテインメント | タグ: , , | 2件のコメント

気持ちはわかるが踏み切れないパルシステムでんき

昨年、小田原駅前のユータカラヤと西友が閉店して以来、野菜はもっぱら生協の宅配パルシステムに頼っている。そんななか、いつも品物と一緒に届くチラシの中に「パルシステムでんき」というのがあるのが目についた。

これは電力自由化に伴い、バイオマス・小水力・太陽光といった再生可能エネルギーを中心とした発電電力を販売しようという試みらしい。従来の電気料金より100円ほど高くなる程度でこうした取り組みを促進できるのであれば、確かに悪くない運動であると思う。

ただし、現実問題としてこうして得られた発電電力はそのまま小田原の我が家で消費できるわけではなく、その電力を発生地点の電力会社に売り、小田原の我が家ではその売り上げで東京電力の電気を購入して配電する形になってしまう。

いくらパルシステム電力自体の電源構成がおキレイなものであっても、実際に使う電力はそんなにおキレイなワケではないのだ。もちろん、それでもこういった取り組みはやらないよりはマシなのだが、なんだか隔靴掻痒の感が否めない。

う〜む、姿勢は買うのだが、せめて小田原で小水力発電してくれれば、などと思う私であった。

カテゴリー: 身辺雑記 | タグ: | コメントする

インフルエンザ 猖獗極む

先週の木曜に「蚕の相談室」を観劇しに出かけたワケだが、その時点で家には風邪を引いて仕事を休んで寝込む家人がいた。私もせめてとマスクをして生活していたものの、かなり危ういと思っていたところ、案の定翌日から発熱、関節痛、筋肉痛、頭痛でダウンしてしまった。

布団に篭もってやり過ごそうとするも、頭痛のせいで軽くうとつくのが精一杯で、iPadでなろう小説を読むのもキツい状態だ。幸い、以前尿路結石の痛みを鎮めるために買っておいたロキソニンが残っていたので、これで頭痛を散らして、元気のない状態の病人程度には収まることができた。

ロキソニンさえ服用していれば、食欲は少ないものの一応動いたりはできそうだったので、土曜の千葉アサヒビール園へのお誘いや日曜の大分から出てくる友人Iとの会合に顔をだそうかとも思ったが、インフルエンザウイルスの培養体状態で会うのはあまりにもバイオテロ過ぎるということで、家に閉じこもっていることにする。それに、こんな状態で酒を入れたら吐きそうだし、東京や津田沼から小田原まで吐きながら帰ってくるのは一度でたくさんだ。

かくして、週末から週明け月・火と布団にくるまって、家人ともどもなろう小説を読んでいるだけの日々を送る。よく考えると、風邪を引いてなくても暇を持て余している休日はいつもこうな気がするけれど。

まだ体は怠いけれども、これは多分に1週間近く布団にねっ転がりっ放しで体がなまってしまったせいだろう。そろそろ買い物にも出てリハビリを始めねば、と思う水曜の朝であった。

カテゴリー: 身辺雑記 | タグ: | 2件のコメント

なろう小説で肱川と広見川について教えられる

先日『修羅の国九州のブラック戦国大名一門にチート転生したけど、周りが詰み過ぎてて史実どおりに討ち死にすらできないかもしれない』を読んで北九州に対する地理・歴史感覚のなさを実感したワケだが、読み進めていくとそれだけでなく南予地方(愛媛県西南部)についてもまったく土地勘がないことを思い知らされた。

特にそれを感じさせられたのは、山間部の木材を換金するには土佐や中予に卸さねばならず、南予地方の海岸線を抑えた主人公にとってうま味が薄くなる、という描写だった。

正直、意味がよくわからなかったのだが、実際に南予地方の山岳部を流れる河川を見てみると、北側は肱川によって瀬戸内海伊予灘へと続く。そのせいで肱川最大の盆地である大洲盆地などは南予地方に分類されるものの、豊後水道に面している宇和島や八幡浜よりもむしろ中予地方の愛媛などが近しいらしい。

同様に南部では広見川が四万十川に注ぎ込み、そのまま土佐湾へと流れ込む。確かにこの地形ではせっかく南予地方の沿岸部を抑えても、山間部の開発はなかなかに難しかろう。それだけに作中で西瀬戸内海を毛利に抑えられた主人公が、必死に土佐廻り航路を開発するのはよくわかる。まあ遠回りになるのと海の荒れ具合を補えるほどのメリットが、主人公や大友氏以外の商人にあるのかが、読んでいていささか疑問ではあるのだけれども。

とはいえ、これを読まない限りはこんな知見も得られなかったわけで、その点ではしっかりと感謝はしているのであった。

カテゴリー: 身辺雑記 | タグ: , | コメントする

観劇『蚕の相談室』

友人Tが出演しているということで、先日「劇団喫茶なごみ」の「蚕の相談室」を見てきた。神奈川県立青少年センターへたどり着くまで横浜駅で食事をしたり地下街をうろついたりしたことは先に述べた通りだ。

神奈川県立青少年センターには800席ほどのホールと100席あまりの設置可能な多目的プラザがあり、2階の多目的プラザは低廉に演劇公演に貸し出している。低廉に貸し出しているのには、もちろん地域演劇の振興という目的があるのだが、もうひとつホール1/3のところに立つ柱の存在による使いづらさも少なくないと思う。今回の公演も1週間の無料貸し出しを得られる「マグカルシアター」の企画として、多目的プラザを使っている。

お話は、立派な繭を作ってその中でやがて訪れるだろう素晴らしい春を夢見る日を待ち望む蚕たちと、その蚕たちを飼っている一家のエピソードが交差して物語られる。

蚕は自らの言葉で紡いだ詩を糸として吐き出し、それに閉じ込められて、やがてくるだろう春を夢見てまどろみの中で死んでゆくこととなる。詩が作れず、 自らの言葉を紡ぎ出せない蚕もまた、吐き出せないまま自分の心にたまった澱に自己中毒して死んでいく。

それでは蚕の世界に並行して描かれる人の世界では、言葉が生きているのかと言えば、養蚕家一家の長女の夫であり、言葉の達人であるはずの詩人の「心意」は言葉によっては人には届かず、結局は相手の思う通りにしか解釈されない。それどころか、最も近い他人であるはずの妻には、その言葉の表層ですらまともに通じない。

そのことに絶望した詩人は言葉でのコミュニケーションを諦め、身体でのコミュニケーションを試みるもこれまで以上のコミュニケーションギャップに苦しむことになる。 言語の身体性への回帰を試みたわけだが、受け手が結局言語で解釈している以上そのギャップがなくなるはずはないのだ。

その、心意→言葉→心意という伝達方法によるコミュニケーションギャップのいびつさは、「本当」「本来」「無口」などの単語の誤用や誤認識のエピソードや、蚕の思っていることを解読するという「蚕の気持ち」装置をめぐるエピソードにおいて、何度も何度も語られることとなる。 そして物語は、相互のコミュニケーションがまともに成立しないままに終わってしまう。

それでも物語の中に希望の光を求めるとすれば、初めは「滝」と見たものから「柱」であるという真実を見つけることに成功した双子の姉妹、そしてそれに伴って出てくる「自分の精(所為)」という妖精の存在だろう。

演劇において、照明効果によってあるものを他のものと見立てることは常套手段ではあるけれども、登場人物によって「滝」と見立てられたはずのものが、青少年センターの小ホールの名物かつ邪魔者である「柱」と実像を暴露されるシーンらは非常にスリリングで、かつユーモアラスで、脚本のセンスを感じさせた。

そして「自分の所為」の導きとは、自分の言葉が通じないのであれば結局はお互いがお互いに誤解しながらも「自分の所為」として生きていくしかないということ指すのだろう。実際は妻の行動によって、結果的に詩人が(蚕相手とはいえ)話をするようになるのである。

この作品では全員が3役以上をこなしているのだが、その中でも蚕としての役と一家の中の役とは見事にリンクしている。言葉達者な蚕役の役者は、同時に演劇を志しながら人に受け入れられない五女役を演じているし、その蚕が一度コミュニティから外されるのも、東京へ行って出戻ってきた彼女とダブらせているのだろう。

であれば、ずっと家を出ることもできず 、自分の言いたいことも言えないでいた次女役の役者が、言葉を紡ぎ出せぬまま死んでしまった蚕の役を演じるにもこれまた必然ということだろう。

そして唯一一家の外にあり、常に言葉の心意を見通すことのできない「蚕の気持ち」役の役者(友人Tだ)が、常に誤解し続ける存在として求婚者の紳士や医者を演じるのもこれまた道理と言うものだ。 そうした目でこの劇を見直せば、さらに一層面白さが増すように感じられる。

そして、この面白さを際立たせているのは、役者が人間の役と蚕の役で演じ方を変えていることで、蚕を来ている時には着ぐるみを着ていることもあってか、演技が絶叫系に近い、人形劇や声優の演技っぽくなる。その演技の違いと蚕の着ぐるみのせいで初めのうちは誰がどの蚕を演じているのかがわからず、着ぐるみからのぞく足許を見て、ああ、あの人はあの蚕なのか、と眺めていた。

もちろん、こうやって蚕と一家の役をダブらせ、かつそれを「自分の所為」と受け入れて、それでも生きていこうとしているという見方は、あまりにも「希望」というものを求めすぎる私という「自分の所為」かもしれない。 でも元々コミュニケーションギャップをテーマにしている劇なのだから、それを読み違えるのもこちらの自由、ということだと思うことにする。

それにしても、蚕に語りかける詩人とそれに詩を教えてほしいと訴える蚕の図は、シュールな絵面なはずなのに、私にはとても美しいものに見えた。周囲にはウケていたギャグが私には不発だったり、いろいろと不満も会ったが、あの絵面を見て美しいと思っただけで負けたと思わざるを得ないだろう。

p.s. 前半で一部ブロジェクターの映像を使った展開があったので、もう少し連鎖劇 っぽい展開が見られるかと思ったのだが、そのシーンだけで終わってしまった。劇場内のでのギャグがそのまま屋外に転じての映像につづく「8時だよ全員集合」での展開や、プロレスの場外戦が会場の外にまで広がって路上プロレスになる展開などが好きな私には、そこまでは拡大しなかったのがちょっぴり残念だった。

カテゴリー: エンターテインメント | タグ: , | 3件のコメント

富澤商店で目だけで満腹する

勝烈庵でロースカツとカキフライを食したのち、まだ開演までの時間に余裕があるので、相鉄ジョイナスや高島屋の地下、ダイヤモンド地下街(Wikipediaを見たら2世代も前の名称だったよ orz)をうろつく。バレンタイン商戦中とあって洋菓子店はどこも気合いが入っていてお客もついているけれど、その分和菓子・お総菜のお店はちょっと寂しい感がある。

そんななか、旧ダイヤモンド地下街、現相鉄ジョイナス地下1階の隅っこでバレンタインデーに合わせてチョコなどの製菓素材・用品を扱っているTOMIZ(富澤商店)が目についた。風邪を引いて家でウンウン唸っているチョコ好きの家人に製菓用チョコでも買っていってやろうかと店内を覗く。

すると、チョコや彩り用のドライフルーツ、タルト用のクッキーの土台などのバレンタイン用のものが店頭に展示されているものの、中に入るといろいろと面白いものがあるのに気づく。

最中の種(最中の皮のことを種と呼ぶとは知らなかった。餡のほうが種に当たるんじゃないのと思った)にも通常の茶色いもの以外に桜色のものなども扱っているし、道明寺粉も通常の白いもの以外にも道明寺餅用なのだろう桜色のものや色とりどりのモノが並んでいる。小麦粉の棚に至っては、50種近いものが並んでいて、いったい何に使うものか私ごときには想像もつかないくらいだ。

また製菓用以外にも味噌や醤油系の各種調味料もあるし、なにより横浜駅地下ならではということでか、中華調味料の品揃えもなかなかに面白い。全体的に小分けされていて単価が高めではあるが、見ているだけで楽しくなってくる。

まあ、結局は見てるだけでお腹いっぱいになってしまってろくに買い物をせずに済ませてしまったのは申し訳なかった。次に行く時にはせめてオリジナルトートバッグでも買ってこようと思ってはいるのだけれど。

カテゴリー: 飲み食い | タグ: , , | 1件のコメント